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空飛ぶソイ・ソーセージの全て

空飛ぶソイ・ソーセージとは、存在せず、かつふわふわと軽い何かである。そんなふうに細く長く続けていけたらいいですね。

2017年5月22日(月)

 起床。子ども時代への逆流は信号待ちで途絶えおはようございます。ナポリタンのポークビッツまみれまみれ。いい風、とつぶやく、彼女は今年で御年75歳、洗濯ものをしまいその後買って来た肉魚豆腐もやしの類を冷蔵庫にしまいかつしまったことを忘れてしまうしまいっぷりでも姉妹はいない。獅子舞の未来。読書読書、帽子界では専らの評判と聞く空色の帽子を購入するも電車賃がなくなる青空の下、炎天の下。十円玉でさえ見た目で弾かれる昨今。夜電算機にがっつき時間を飛ばす半時が一時一時半二時と恐ろしい穴だ、これは。いきなりじゃあ君発表してみてとしどろもどろになる自分を憐れむ自分慰める自分、な夢を見てじっとり。扇風機が好き。

2017年5月21日(日)

 朝三時労働取りあえずの最終電車に飛び乗る贅沢、舌打ちされる贅沢。人混み。皆何を求めているのか。クーラーを。それだけ暑かった専門店、のテーブルをどかしてみると意外に広い。うずたかく積まれたバッグ、缶、ファイル、本、ネックレス、トートバッグなどを照らすには強すぎる照明の午後八時半、「何を話したのかはろくに覚えていないけれどもただ話したということだけは覚えていて、そしてそれは楽しかった」帰宅韮玉昏睡。

そば

 おとこもすなるにきといふもの、おんなもまたとききしよりはやいくとせ、われもわれもとおもいこそつのれど、やるかたなきおもいのたけ、すくすくといたずらにのびるばかりにて、そをいかにふみにつくりかたちにかなさんと、おもひわずらふうちにひはながれひはおち、ぬばたまのよるのいまにいたりしぞ、はたときづく、やみにともるひとひらのあかりに、あやしがりてみすかするに、ただふよふよとそのかたちさだまらぬままにただよい、はてにきえぬ。このことをばものし、たれをかにもつたえんとほっしたれば、はじをしのびてにきをまたはじめん。つたなきわざにはべれど、かたはらいたきさまなれども、てなぐさみなれば、こひねがう、わけしりにおしえさとすやから、あしざまにけなすどち、そうそうにたちさらんことを。

雑な筆跡の話(2) 銅賞、夏休み、海藻

 とかしたい。そう、何とかしなきゃって、いつも思うんですけれども、しかしよく考えてみればこの書体、下手をすれば小学生の頃より全く変わっていない。要するに汚い、というより幼い、がきっぽい筆致なわけです。たまに、失くした本を探して部屋に荷解きしないまま積まれた段ボール箱を漁っておりますと出るわ出るわ、小学校四年生の硬筆の課題――銀賞、ただし特賞、金賞ときての次だった。その下には銅賞があったものの、これは参加賞のようなもので、不時着して胴体からランディングをかます航空機の最前列で書いたような作品でもとりあえずは銅賞であった――や、五年生の夏休みの宿題であった計算ドリル――数字は本当に丁寧に書かないと駄目だということは身に染みて知っておりますが、特に0と6、7と9のペアは相互に間違えやすい。ささっと書いたばっかりに、これら数字を取り違え、これまでどれほど集計をやり直し、テストで点を下げ、暗証番号を打ち損なってきたことか、それこそ数え切れません――なぞの、懐かしい品々を眺めておりますと、強い筆圧で書き刻まれた、「ねん くみ なまえ」の名前の字体が、中古CDショップの会員カードの登録書に先日記した氏名と、ほとんど同じことに気が付きぞっとしてしまいました。何にも成長していないんじゃないかと、おっしゃられれば、その通りだと、お答えするよりほかなくて、ただ書く内容の方はさすがに、ちっとは変わりはしましたが、しかし書き癖の方はかえって根強く、それどころか同じようなへたっぴに書き続けて早幾年、すっかり染みつき歪みに歪んでしまったために、恐らくは子どもの頃より、よりひどくなっている。

 よく漫画家さんやイラストレーターの方が、手書きの台詞をちょこちょこと、お書きになっておりますのを拝見いたしますが、あれなんかはそのままフォントにしても売れるぜ買うぜってくらいの、崩れたのでなく崩している、流麗な棒線やちっこい丸文字など、書いた当人の個性が分かって、親しみも持てる代物ですが、そうであるからこそ、打ち上げられて岩にひりつく藻のような文字では、書いた者の人柄も透けて見えるというもので、ただでさえ自分のよからぬ部分がうっかり出ちゃってどん引かれるんじゃないかと、日々戦々恐々としながら、注意深く言葉を選んで表情を作り、世の隅で人目を憚りひっそりと、海藻のように生きていきたいと願っているというのに、それなのにこんなところから、字が汚いばっかりに馬脚を現すことになるとは、でもまァそんなものかも知れませんね。(了)

雑な筆跡の話(1) 糸みみず文字

 から書かないとなかなかものを覚えられなくて困ってしまいます。だから結構、メモなりノートなりに色々と書き付けることが多いわけです。しかしここに残念なことが一つあって、何かといえば字が汚い。特に空中で、手の平一枚を下敷きにして書かねばならない咄嗟のメモ書きは、ただでさえの乱筆が、不安定な状態での作業のために、より一層乱れに乱れて、もはやこれは字なのかと、それとも何か、水槽に餌用に入れた糸みみずを写生したものなのかと、わけのわからないシチュエーションを想定したくもなるほどに、まァ酷い字体で情けなくなる。とはいえ後で読み返したとき、判読できないとなれば、これはそもそもメモの意味がありませんからね。ロゼッタストーンヒエログリフや磨崖碑のカローシュティー文字よろしく、失われた古代文明の言語体系を突き止めるつもりで、風雨に曝されたかつての住居の廃墟のように崩れ切った筆跡を解読しようと努めたところで、何が正解で何が誤りかは、書いたはずの内容と照合することで明らかになり、しかし書いたはずの内容なんて覚えているはずもない、というよりそれを覚えないで済ますために、そもそもメモを取ったのだった。そしてそのメモが読めないのである。だからその中身を知るよしもなく、結局のところ何もわからない。これならやっぱり、糸みみずの写生のほうが大分ましかもわかりません。(つづく)

 

案ずるより産むが安しな話(2) 人間桶、ブスとナルキッソス

 かしそもそも失敗を気にするような方がたは、そんな気楽な気分でいられる人間ではない。心配と言うものは穴の空いた桶のようなもので、これはどうにも何かが勝手に漏れていくものらしい。隙間を一つ塞いでもまた別の箇所よりこぼれでる、いくつ抑えても垂れ流しで、結局は桶ごと取り替えるより他にない。だから桶ならば交換する。しかし生憎と人は桶ではない。しょうがない。ならいっそ、桶になることは諦めましょう。気楽になろうと気を張ったところで、それは気を抜くのとは正反対の気構えに過ぎませんから、心配するのはもう自分の穴なのだといったんは観念して、鼻の穴だって何とも間抜けな姿だけれどもそれなりに頑張っているように、その穴空きの桶でどのように水を汲んでいくかってことを考えたほうがいい。
 失敗というものは、それが原因で自分が傷つくものではなくて、むしろ逆に持病や古傷が疼いて疼いてその結果失敗してしまうことが多いものですから、そこでは「私」と言うみじめな生き物の、とびきりみじめな部分が顕わになる。だから恥ずかしい。しかし恥ずかしいならなおさらのこと、開き直って取り繕ったほうがいい。着飾ったほうがいい。メイクアップすればいい。ブスにでも、ブスなりに美しくなる化粧があって、同じブスならただのブスより身綺麗なブスのほうがずっといい。それは野に咲く花の美しさではなく、むしろ壷に活けられた華の美であって、根より切り離された茎を飾る花弁は、一日二日で萎れるけれど、それが残酷だというのなら、人の手の加わったものはみな何がしか無残であって、いずれ塵となり灰と化す、もう誰も拝まなくなった巨顔石のように、ただ砂に埋もれ削られてゆくだけなのかもしれないけれども、だからといっていまそれが美しいことは否定のしえない事実であって、かつそれは人の手によるからこそ美しい。化粧するにはまず鏡を見なくてはならない。それはナルキッソスと正反対に、いまの自分が醜いことをいったんは認めるためであって、いくら取り繕ってもボロが出るだろうとは重々承知で、じきに老いさらばえればすべては無駄になるかもしれないとひしひしと不安で、こうして馬鹿馬鹿しいやって自嘲しつつもなお、日々、ちょっとずつでも良くなろう、いいものを生み出そう作り出そうとするような、底無しの沼に根ざした泥臭い根性は、斜陽に照らされつつも意外に、長くまた濃い陰を、水面に投げかけるものなのかもしれません。自身のすることなすことは実体のない陰のようなもので、太陽の動きも身体の形も、自分ではどうしようもないものですから、せめてのびのびと精一杯、手足を拡げてみたいものです、変に縮こまるよりはね。
 人間は、避け難く失敗をする困った生きものなのです。失敗しまいとの思いが失敗をもたらし、または思いもよらない事態に失敗する。八方ふさがりですが、しかしだったらできることなら、失敗するまではくよくよ悩まず、失敗したら諦めてごまかすというのがどうも、健全なあり方のように思われます。こんなんでいいのかと、何ともふにゃふにゃな結論になってしまいましたが、まあこんなもんでしょう明日頑張りますよ、明日。(了)

案ずるより産むが安しな話(1) 美顔器とスキー

「案ずるより産むが安し」っていい言葉ですね。本当に、何事も実際にやってみなけりゃそれがどうなるかはちっとも分かりません。またやってみて初めて気づくこと、起ることだって色々あります。そういった、予想だにしていなかったトラブルを一つ一つ解決してゆくにつれ、自然と仕事が仕事を呼ぶようになり、ミスにミスを重ねていって、やがては面の皮が厚くなり気持ちさえたるむ。お客様のクレームも上司からの叱責も蕎麦屋の店員の舌打ちも、美顔器のスチームみたいに、いくら浴びたってへっちゃらぽんよと、しかしここまで達観するのは相当のベテランの話であって、裏を返せば「安し」なんて言っても初めから安らかに産めるかと聞かれればそんなわけはなく当然苦しい、無論初めは失敗する。しかし失敗しなけりゃ、つまりただ考えていただけじゃァ、それをやるってことが具体的にどういうことなのか、またはそれに取り組む自分に足りないものは何であるのかが、いつまでもはっきりしないわけです。
 例えばスキーを始めるのだって、こうこうこう行ってここで曲がってターン、からのジャンプ、よし、ザッ、ザーッつって滑っちゃろうと、頭ン中でイメージだけ膨らませてたって仕方がない。リフトの降り口でこけてからが本番ですよ。では上達すれば変わってくるのかと言えばそんなことは多分なくて、下手なんで知りませんけど、そもそも滑るということ自体、自由自在に遊んでいるようでいて、その実情は自分では思うようにいかない流れや勢いに身を任せながら、要所要所で力を加えて、自分の進みたい方向へと徐々に軌道を調整する、というものであってそれ故に、滑りに自力や故意の寄与する余地なぞ、実のところはほとんどない。むしろそこで求められるのは、流れに乗ること、乗った流れを妨げないことなのです、知りませんけど。

 にもかかわらず、悲しいかなついつい力んでしまう。それも変に力む。そして変に力んでかえって失敗する。ならば問うべきは、何故力んだって仕方がないのに力むのか、ということでしょう。それは大抵、失敗を予め思い描いてしまっていて、その空想上のミスに何とか対処しようと、身構えてしまうからではないでしょうか。それでももし、想像した通りの失敗を犯したならば、まだいいんですけれども、とはいえミスしないよう、しないように気合を入れて準備をしてきただけにむしろ、恐れていた失態をやらかすことは稀であって、これに対して全く別のところから問題が生じてきた場合、うっかり狼狽してしまうと、あわあわあわとなった末に凍結する、なんてことにもなりかねない。いずれにしても失敗をもたらすものは、失敗することへの恐怖である。
 だからこそ、前もって失敗するかもってくよくよと、思い悩んでいたってしょうがない。いやそりゃ失敗はしますよ、失敗はするけれども、しかし物事は成功と失敗とに、1か0かに、きれいに区分できるものでは到底ないですし、だから当たり前に失敗したとしてもまだいくらでもやりようがある。そのやりようが、どのようなものであるかは、実際に失敗してみなくちゃ分かりませんが、でもお先真っ暗だ、なんて沈んで、自分から盲目にすすんでなっていたんじゃあ、導きの糸はか細く、わずかな光に微かに浮ぶものですから、解決の糸口だって、見つかるものも見つからない。大切なのは眼を閉じないないことです。自分の失敗から目を背けなけないこと、目を背けなければ、どんなに悲惨な現状でも、失敗と一括りにレッテルを貼ることはできないことも分かって、そこには自分のぎこちなさや対象そのものに内在する欠陥など、より分けてみれば細々とした瑕瑾や凸凹があるはずで、それら全てをいちどきに何とかすることはできないけれど、まあ7割6割ごまかせれば上出来で、2割1割しかできなかったとしても、やらないよりははるかにましです。つまり必要なのは、ある日突然目覚めたら手に入る百万馬力のスーパーパワーではなくて、あらゆる姿かたちで現われる問題に、そこそこに対処しだまくらかして、何とか乗り切る胆力であってこれは、まァミスっても何とかなるっしょって、ならないんですけど、でもならないならならないなりに、ならないからこその根拠の無い自信に根ざしているのです。

 初めに失敗ありき。だからこそ、悩みは失敗してから悩めば充分、起きた失敗にどのように、どれくらい対応するか、ということが問題となるわけですが、しかしその方法は失敗してみなければ分かりません。もっと言えば解決の仕方は、失敗の方からある程度、要請されるものでしょう。したがってあらかじめできることといったら、まっ失敗したっていいやって、へにょっとふにゃっとリラーックスリラックスしておくこと、くらいしかない。それでいいのだ。(つづく)

本との別れの話

 うがままに本を選べまた買えたらいいのに、と思う、つくづく、ほとほと。特に休日の午後早くに訪れた大型書店でテンションの上がるにまかせてあれやこれや、経済学の新書から自宅でできる簡単おつまみ、1000ページ越えのボヴァリー夫人論に笑いつつ、ポール・オースターの新作をパラパラと見る、なァンてハイソな空気に気詰まりになった息抜きに、LOの表紙をよしよしとチェックしたり一応『苺ましまろ』の新刊がやっぱり出てないかと確かめたり、なんてことをしているうちに「当店の閉店時間は午後六時となっております、会計のお済みでないお客様はお近くのカウンターにお急ぎください」との非情なアナウンスに我に返り、手持ちの籠にこんもり積み上げた書籍、これを全部買うわけにはいかないなってことに思い当ると悲しくて、何年も連れ添った仔豚のポールと別れるときみたいに、愛おしげにその表紙を撫でたところで、もう店も閉まるから、疲れたから、もとの場所に一冊一冊返していって、しかしあァ明日にはきっと、自分がどの作品を嬉々として集めていたのか忘れてしまうんだろうな、とぼんやり考えつつ、しかし悔しいのであえてブックリストを作ったりはしない、そんな何もしなかった日曜日の夕方の寂しさ、侘しさ。

健康食品の話

 事も中間・中道を採るのが一番良いようで、これ大好きこれさえあれば大丈夫他のものなぞ何にもいらないって、熱を上げるのは、そりゃ望ましいことかもしれませんがね、そうした熱は案外に冷めやすいもので、また願ったことが実際に叶った途端に文字通り幻滅してしまう、なんてこともありがちです。
 雑誌記事や報道番組なんかで、〇〇ダイエット、とか××健康法とか、まあ〇〇とか××とかには何か特定の食品が入るんですけど、毎日これさえ食っとけば万事オーケー、寿命も伸びるしシェイプアップもできるらしい。そんな都合のいい話が、と疑いつつも、まァ試しにってんでスーパーマーケットを覗きに行ったらあら無いよ品切れ、すみません当商品ただいま大変好評頂き在庫切れとなっておりまして、入荷の見込みもいまだ立ってないんですッつって、にやけ顔を取り繕って謝る店員の口元よりにじみ溢れる商魂にいらっとしつつ、じゃあって帰宅後今度はネットで検索してみたらあら無いよこっちでも大人気、値段もすっかり高騰しちゃってオークションでの取り引きも盛んな御様子。でも箱買いならばお買い得ですよなんと今なら送料無料、との広告を見つけ腕組み、うーむ半年分かァ、いやでもここまで来たらって一体どこまで来たのやら、でも注文、到着してから三日で飽きた、もずくプルーン水素水、にがり昆布茶ミドリムシ、ヨーグルト胡桃ふすまクッキー、青汁黒酢プロテインシェイク、蒟蒻麺古代米岩塩、などなど、健康は段ボールの中に唸るほどある。これら自然食品に囲まれてなお、新たな獲物を探す(ほうほう、乾燥納豆ねェ)、気分はハンターですが、しかし狩られているのは誰なのか、大自然の神秘、食物連鎖のエコシステムが、ここにおいても現われているのは驚くべきことですね。

口すさびに歌う歌の話

 は歌うものなのか聞くものなのか、いや両方でしょ、とおっしゃる。それがどうやら正解なんでしょうけれども、でもたあだ聞くだけの機会に比べて歌う機会のほうはぐんと少ないと思いませんか、特に最近。いやァ、歌歌うんだったら別にどこでだってできるだろう、それこそカラオケとか自室とか、路上でだってどこでだって構いやしない、だなんて威勢のいいお言葉は、まァその通りなんですけどね、ただ、いま申し上げておりますのは、何かの曲を歌おうって気合を入れてわざわざ歌う歌ではなくて、何かをしながら口すさびに歌う歌で、こっちの方はめっきり減ったと思いませんか。例えば民謡童謡の中には田植え草刈り稲刈りなどの、野良仕事中に口ずさむものや、地引き網や魚の仕分けなんかのときに、えんやこらさと声を合わせるものもある。こういう歌は、この曲が歌いたいってんで歌うんじゃなくて、やらなくちゃァなんない仕事がまずあって、でも面倒臭い、単調だしつまんない、でもやらなくちゃ、だったら、やるからには楽しくやりたいってんで、募る労苦に強張る身体をほぐし気持ちを和らげようと、歌い出した歌がだんだん歌い継がれていったんじゃないか、と愚考しておりますが、だからこれこれのときはこの歌ってのが決まっている。初めに歌があり、それを歌わんとしてある場所に行くのとはちょうど反対に、むしろ場所の方が歌うべき歌を規定する。
 しかしこの頃は、こんな特定の時間場所に限定されたテーマソングみたいな歌がめっきり減ったと思いませんか。オフィスのデスクワークの歌、デイトレーダーの歌、コアラ訓練師の歌、みたいな、ものがあってもいいと思うのに、集中するためには静かにしてなきゃなんなくて、あるいは静かにしていることが集中しているアッピールになる、とでも思っているのか、いずれにしても仕事は基本黙ってやらなくちゃならないみたいな風潮がある、様な気がする。外で働く方がた、工事現場や引っ越し現場、ごみ収集の歌、は無いほうが不思議で、もし外回り営業の歌、ティッシュ配りの歌、ジャムの蓋へのテープ貼りの歌、みたいなのがあればぜひ聞いてみたい、それで炭坑節やソーラン節などと比較して見たい。でもない、多分、まあ管見寡聞なだけなんでしょうが、それはしかたがない。仕事の内容が変わったんじゃないか、今日び仕事に全的にコミットしてないとやれないようなものが増え出したし、だから歌なんて歌う暇も余裕もないしょォって、おっしゃられるかもしれませんね。そうだとしても、いくら楽しいこと刺激的なことやりがいのあること、クリエイティヴでイノベイティヴなことだって、基本的な仕事内容はぶちまければコアとなるタスクのマニュアルにのっとた反復かつ応用ですし、同じことずっと繰り返していれば、またこれかよって飽きてすぐに疲れてしまうのは変わらないでしょう。jこれに対して理想的なのはいま、何をやっているのか忘れちゃうくらい没頭して、あれッもうこんな時間、とかおいここどこだよ、とか、あァもうこんなにやってたのかって終わってから気づく、ぐらいのほうが、効率的にはどうか知りませんが、精神衛生上はよろしい気がします。ちょうど焼き栗とかピーナッツなどを剥いては食べ剥いては食べているうちにあらッ、もうこんなにこんもり溜まっちまった殻の山盛りを、さっと片づけてしまうみたいに、山を成す雑務も一掃きで片づけてしまえたらどんなにいいか。そう思うんでしたらやっぱ歌ですよ、歌。えェ歌ァ、とその効果をお疑いになるんでしたらもってこいの事例があって、それは何かと申し上げればお風呂ですお風呂。湯船に浸かって100数える、となるとしかし100とは!そんなん無理だろうまどろっこしくて、とお思いになる方が大半かと存じますが、しかし歌を一曲歌うとなると、案外に楽チン。平均的なポップソングの長さを3分といたしますと秒に直して180秒でこれは100まで数えるのの約2倍、数えながら、数える代わりに歌えばほらすぐですよ、踊りもつければそれこそ一瞬、是非一度、実験してみて下さい。更に言えばマラソンや筋肉トレーニング中に音楽を聞くのも同じことで、ああ後20キロメートルもあるよ、とか、後3セットかァ、なんてくよくよした自分にサヨナラ、して次のフレーズのことだけ考えていたほうがずっといいです、しだから足も止まらない。
 いや、いや歌なんか歌っていたら、やはり気が散って仕方がないだろうなんて、いまだおっしゃる方、もちろんいらっしゃるでしょう、けどね、けど言わせていただけるならば、あァ嫌だな早く終わんないかなァしんどいなァって同じようなネガティブなことぐるぐる考えているのはよろしくなくて、でもそんな急にポジティブになれないよねっていうのも一理あって、だったらリズムも旋律も決まっている歌の流れに身を任せてどこまでも、どこまでもそのまま何も考えないでいたほうがきっと、意識を消耗しないことでしょう。自転車は前に前にと進みますが、しかしその乗り手が実際にやるのは円運動の反復で、もっと言えば右足左足を交互にぐるぐる回すことです。そのとき必要なのは先へ先へと焦り先走る気負いではなく、同じ動作を倦むことなく続ける粘りであって、ペースの維持や気力の保持ではないでしょうか。
 要するに、やらなくてはならないことの型・パターンが分かったら、後は歌でも歌いながらやった方がずっと楽だしぐんぐん進むということです。しかしながら現代にはそんな歌が希薄である。その代わりに霧雨のように飛び交っているのがコマーシャルのメロディーとか歌のサビのとこだけとか、残酷にも切り裂かれた無名の断片的なフレーズで、更にこれは何回も、何回もぐわんぐわんと、それこそ一日中、頭のどこか暗い隅の方で鳴っている、呻いている、ときめいているのるんるんと、騒がしくてうるさくて、もう勘弁してほしい、みたいなことがよくあります。しかしあれもまた一日を乗り切るための歌なのであれば、それは、細々とした作業を色々、並行して進めて、コラージュみたいに一個の仕事を済ませなくちゃなんない、そしてそうした仕事もより大きな全体の部分でありまたその全体もより大きな全体の部分でありまた、と以後延々と続くようないまどきにはぴったりの、バック・グラウンド・ミュージックなのかもしれませんね。