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空飛ぶソイ・ソーセージの全て

空飛ぶソイ・ソーセージとは、存在せず、かつふわふわと軽い何かである。そんなふうに細く長く続けていけたらいいですね。

若者の〇〇離れの話

 近の若者ときたら、政治から離れ車から離れ酒から離れているそうですね。しかしなが

らそもそも人は、何かといってずんずん、離れ離れて生きてゆくのではないでしょうか。ま

ずは乳離れ、次いで親離れして学校へ、そこで出会った教師友人と離別して、独り立ちすれば

巣離れで、生まれ故郷より離れた街での一人暮らし、には慣れたものの、年の離れた上司との

、ことあるごとの衝突に疲れ、現実より離れたいとの一心で、ここは一発テニスでもと、昔

取った杵柄に、べったり没入してみたものの、ブランクはどうしようもなくて、現役より離れ

ていたつけが祟って、案の定肉離れ、しかしその治療のために通い始めた整形外科の先生に、

一目惚れしてからは一念発起、急にめきめきと実力をつけて、出た大会ではプロをも破る素人

離れの大活躍、の勢いそのままプロポーズ、の絶好調をしり目にして、ダダ下がりだった営業

成績をとうとう見限り離職、その後は夫婦二人で共著して出した、セクシャル・ストレッチの

教本(DVD付き)が売れに売れ、それを元手に起業した、プロテインやスポーツ雑貨の輸入代

理店も軌道に乗れば、金離れもよくなって、浮世離れした生活を送れるようにはなった一方、

二人の心はしだいしだいに離れて別居、とうとう離婚してからは、会社も親権も相手に譲って

、自分はと言えば人里離れた離島で一人、土いじりしつつその日を暮らし、徐々に募る道心は

、毎朝の読経に厭離穢土を欣求せしめ、そうしてある二月の朝、苗床にしていたビニールハウ

スで、倒れているのが見つかった、死後三日は経っていた、とのこと。喪主は離縁したパート

ナーが務めたが、どうして住所が分かったのかといえば、毎年二度、盆と正月に米や野菜、芋

の類を段ボール二個分、故人は贈っていたからであった。享年六三歳。

ウィリアム・モリスと循環の話

 入雑貨のお店に行って、珍しい品物をあれこれ眺めるのは、金がなくとも楽しいもので

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然乏しいものですから、ふふふんふんと分かったふうを装って、マグカップの取っ手を撫でた

り、ランチョンマットの上に並べられたフォークとナイフのセットを手に取ってみたところで

、実のところは何も知らない、通人を気取る通りすがり、結局買わないただの冷やかし、店

員さんにはいい迷惑、に過ぎません。しかし言わせていただければ、こういったものはすぐに

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物を見てもまだ足りなくて、本来ならば、一、二ヶ月は使いつつ、自分の生活スタイルに合う

のかどうか、試してみなけりゃ何とも言えない。如雨露一つ買うんだって、先だつものは庭な

わけです。だけどもそんな悠長な話ではこのご時世、商売が成り立つはずもないから、悲しい

かな店頭で選ぶ僅かな間に、客は品物が良いか悪いか、判断しなくちゃならない世知辛い。し

かし輸入雑貨ともなれば、困難は更に果てしなくなり、予備知識はまるでなし、下手をすれば

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緒を吸い上げる、なんてことも稀ではないから、それなりに高価なものを購入するには、そ

りゃ悩みますし躊躇しますよ。だから、なんだこいつ見るだけかよって、店員の方はどうか決

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を売り買いする、といった関係ではなく、例えば19世紀イギリスにおけるウィリアム・モリス

の文化史的位置を踏まえた、蔓草模様のコースターの説明ですとか、またはガラスの大量生産

を世界で初めて確立した老舗メーカーの社史における、このタンブラーの位置ですとか、そ

ういった情報を客に教授することもまた、販売員の大切な役割にもなってくるのではないでし

ょうか。だって考えても見れば、我々庶民が庶民らしく庶民的に生きてきておれば、お香の香

りを嗅ぎ分けたり、オリーブオイルの産地を舐め当てたりなど、五感を駆使した趣味判断の方

法を、教わったり鍛えたりするチャンスなんて、そうそう巡ってはきませんよ。しかし繊細な

技巧、優美な風体、大胆な企図といった、文物の内奥で繰り広げられているであろうところの

スペクタクルは、きまって見過ごされがちな細部においてしか表出しないものですから、そ

れを楽しめるようになるまではひたすら、絵画なら絵画、時計なら時計を、たくさん見て触れ

使ってみなければお話にならなくて、しかしそれは結構しんどく、それに何より金がかかりま

す。だから、何でそこまでして見分けらんなきゃァならないんだ同じ蜂蜜だろ一旦腹に入っち

まえば同じだ同じ、だなんて開き直るのも一理あって、でもそうなるとせっかく熟練の技芸と

古来の伝統、をいまここに現出定着させるための、極度の集中と霊感とに、人生を賭けた方が

たの苦労が、水泡に帰してしまいかねない。すると作り手も人間ですから、俺ァ作品を自分の

ために創ってんだ、好きでやってんだから文句あっかッつって悟り切った自足した方しかいな

いのであればいいんですけれども、やはり努力が報われない、工夫が評価してもらえないとな

ると、やる気を失ってしまいますし、作品の質も下がっていく。それで何とか自身の眼を培お

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ろ業界全体が縮小しかつ停滞してしまう。坂道を転がり落ちるリンゴのように、衰退の向きは

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リンゴをかじる話

 ンゴを丸ごとかじる食べ方に憧れている、それもつやっつやで大振りのやつを、ブリュ

ーゲルの絵ン中で踊る農夫が着ている白いたっぷりした服の袖で磨いたり拭ったりなんかしち

ゃって皮もろとも、洗わないままかぶりつきたい、がぶり寄りたいステップ踏んで、目の覚め

る酸味に頭を振りたい。そんなわけで、ものは試しと八百屋に行ってリンゴを買う。いやしか

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のノッポでさえ、労働に励む平日夕方は定時の前に、俺は腕時計も忘れて、カリフォルニア大

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体何をしとるのか、リンゴなんぞ食っとる場合かと、頬を真っ赤に染めるくらいの羞恥心から

いてもたってもいられなくなり、弾かれたように店を飛び出し、結局リンゴは買えず終い、な

んてことになりかねない。だからこそ、やはりリンゴは八百屋で買うに限るのである。