空飛ぶソイ・ソーセージの全て

日々の記録をぐずぐずにしたうえで一本、腸詰に仕上げたソイ・ソーセージが空を飛ぶわけがない、中身なんてないから。

地球温暖化と平五郎の話

 近「この季節らしからぬ」天気が多くありませんか。まだ一月なのに気温が二十度近くにまで上がるからダウンコートなんか着てられっかって脱いじゃう、人によってはセーターもいるかって半袖になると案外に風は冷たく日陰は特に肌寒いから、身体が冷えちゃって風邪ひいちゃう。それは気を付けてほしいんですけど、それはどうでもよくて本当に、冬なのにポカポカと暖かく、小どころか大春日和になるかと思えば次の日には氷点下、もぞもぞと起きだした蛙もそのまま凍りつくような寒さにひっくり返ってしまう。これは夏にもあると思うんですよ。アスファルトがどろどろに溶け出すんじゃないかってくらいの昼下がりに油蝉がジィジィ鳴く、かと思えば一転曇ってひんやり、プールサイドで子どもたちが唇を青くしてぶるぶると震えている。つまりは同じ季節の中で、日ごと春が来たり冬が来たり、アップダウンが激しくなった。
 こう気温の変動が激しくなると、特徴的な季節はいいんですけどね、困るのが春とか秋とか地味な季節で、天気の振り幅が大きいとその存在がかき消されてしまう。それでも春は、卒業式とか入社式、お花見といった身近な行事があるので忘れるってことはないんですけれども、問題なのは秋で、うだるような残暑がだらだらとやけに続くなァなんてうんざりしていたら急に現われる冬に驚かされる、あれ秋は?って、目にはさやかに見えないならば、視覚優位のこの時代、とてもじゃないが生き残れない、秋が死滅してしまう、絶滅してしまう、レッドデータブックに載せるべきではないか、との危惧が示されるなか、紅葉や銀杏の絨毯の上で、熊や狐、リスたちが樫の木の切り株を囲んで協議するわけですが、ううんと悩んでいたってどうしようもない、だって冬が来れば皆眠くなっちゃって寝ちゃうし、春が来たら来たでうきうきと楽しくなって野辺を駆け回り虫をほじくり花を食むのに忙しく、夏は木陰で涼むので精一杯、だから集まって議論するなんてメランコリックになる秋くらいしかない、だったら秋さえ無くなれば、誰もがハッピー、そうして秋は独り静かに死んでゆく。それでいいんじゃないかって、議長の老兎が半分夢の中で結論を下す。
 それはともかくとして、実感としては春夏秋冬というよりも春夏冬ときて冬と春との間に秋ならぬ何か別の季節が時折現われる、と言ったほうが適切な気がしますね。または秋はもうとっくの昔に死んじゃっていて、今の秋は亡霊のようにたまにしか出没しないのかもしれない。どうしてこんなことになったのか、誰が秋を殺したのか、誰のしわざなのか、と問えば当然槍玉に挙がるのは地球温暖化でしょう、何でもグローバルウォーミングが悪い、逮捕しろ、裁判にかけろ、極刑に処せ。しかしここで、いや待て、待ちたまえ、と向こうから声が上がる。考えてもみろ、地球温暖化は単なる現象に過ぎない、その原因を作った奴らこそ責任を探るべきじゃないのか、責任者は誰だ。それは旧世界の奴らだろう、何とかしろ、金を出せほら、我らの地球がこんなにも痛めつけられているというのにッつって、彼らは地球を人質ならぬ星質にとって換金しようとする。そんな陣営を一方に控え、他方ではいや、地球温暖化何てそもそも存在するのかと、人為的なものじゃなく、単なる気候のサイクルじゃないのかと、だからその責任を取るも取らないも、議論自体が成り立たないと突っぱねる陣営もある。話し合いはどんずまりに陥る。と両者の間で、いやそんな悠長なことを言っとる場合じゃァないんだ、と白髪の兎が、ツイードジャケットの袖をいじくりながら抗弁します。あんたらは知らんだろうが、毎年わしらが秋に開いているシンポジウム、これに近頃参加する者がめっきり減ってしまってのォ。象やキリン、サイや蛙の奴さえもとんと来なくなった。これんが年寄りの世迷言なのは重々承知じゃが、この年になると死なんくていい奴ばかり死んじまい、まんだ老い衰えて生き恥を曝す自分がァもうみじめでみじめでやり切れんのよ。あんたらの議論を聞いとると、俺の肝臓は特別製だと豪語しとったアル中の平五郎を思い出す。知っとるじゃろう平五郎がどうなったか、あの右腕がどうなったのか。悲惨な話じゃて、のォ。と最後は半ば独り言のようにとうとつと、震える声で話し止めた老兎は、崩れ落ちるように自席に座った。周囲からまばらな拍手と冷笑、同情のまなざしが入り混じり起り、さざ波のように押し寄せ帰り、じきに消えてしまった。