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空飛ぶソイ・ソーセージの全て

空飛ぶソイ・ソーセージとは、存在せず、かつふわふわと軽い何かである。そんなふうに細く長く続けていけたらいいですね。

案ずるより産むが安しな話(2) 人間桶、ブスとナルキッソス

 かしそもそも失敗を気にするような方がたは、そんな気楽な気分でいられる人間ではない。心配と言うものは穴の空いた桶のようなもので、これはどうにも何かが勝手に漏れていくものらしい。隙間を一つ塞いでもまた別の箇所よりこぼれでる、いくつ抑えても垂れ流しで、結局は桶ごと取り替えるより他にない。だから桶ならば交換する。しかし生憎と人は桶ではない。しょうがない。ならいっそ、桶になることは諦めましょう。気楽になろうと気を張ったところで、それは気を抜くのとは正反対の気構えに過ぎませんから、心配するのはもう自分の穴なのだといったんは観念して、鼻の穴だって何とも間抜けな姿だけれどもそれなりに頑張っているように、その穴空きの桶でどのように水を汲んでいくかってことを考えたほうがいい。
 失敗というものは、それが原因で自分が傷つくものではなくて、むしろ逆に持病や古傷が疼いて疼いてその結果失敗してしまうことが多いものですから、そこでは「私」と言うみじめな生き物の、とびきりみじめな部分が顕わになる。だから恥ずかしい。しかし恥ずかしいならなおさらのこと、開き直って取り繕ったほうがいい。着飾ったほうがいい。メイクアップすればいい。ブスにでも、ブスなりに美しくなる化粧があって、同じブスならただのブスより身綺麗なブスのほうがずっといい。それは野に咲く花の美しさではなく、むしろ壷に活けられた華の美であって、根より切り離された茎を飾る花弁は、一日二日で萎れるけれど、それが残酷だというのなら、人の手の加わったものはみな何がしか無残であって、いずれ塵となり灰と化す、もう誰も拝まなくなった巨顔石のように、ただ砂に埋もれ削られてゆくだけなのかもしれないけれども、だからといっていまそれが美しいことは否定のしえない事実であって、かつそれは人の手によるからこそ美しい。化粧するにはまず鏡を見なくてはならない。それはナルキッソスと正反対に、いまの自分が醜いことをいったんは認めるためであって、いくら取り繕ってもボロが出るだろうとは重々承知で、じきに老いさらばえればすべては無駄になるかもしれないとひしひしと不安で、こうして馬鹿馬鹿しいやって自嘲しつつもなお、日々、ちょっとずつでも良くなろう、いいものを生み出そう作り出そうとするような、底無しの沼に根ざした泥臭い根性は、斜陽に照らされつつも意外に、長くまた濃い陰を、水面に投げかけるものなのかもしれません。自身のすることなすことは実体のない陰のようなもので、太陽の動きも身体の形も、自分ではどうしようもないものですから、せめてのびのびと精一杯、手足を拡げてみたいものです、変に縮こまるよりはね。
 人間は、避け難く失敗をする困った生きものなのです。失敗しまいとの思いが失敗をもたらし、または思いもよらない事態に失敗する。八方ふさがりですが、しかしだったらできることなら、失敗するまではくよくよ悩まず、失敗したら諦めてごまかすというのがどうも、健全なあり方のように思われます。こんなんでいいのかと、何ともふにゃふにゃな結論になってしまいましたが、まあこんなもんでしょう明日頑張りますよ、明日。(了)