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空飛ぶソイ・ソーセージの全て

空飛ぶソイ・ソーセージとは、存在せず、かつふわふわと軽い何かである。そんなふうに細く長く続けていけたらいいですね。

雑な筆跡の話(2) 銅賞、夏休み、海藻

 とかしたい。そう、何とかしなきゃって、いつも思うんですけれども、しかしよく考えてみればこの書体、下手をすれば小学生の頃より全く変わっていない。要するに汚い、というより幼い、がきっぽい筆致なわけです。たまに、失くした本を探して部屋に荷解きしないまま積まれた段ボール箱を漁っておりますと出るわ出るわ、小学校四年生の硬筆の課題――銀賞、ただし特賞、金賞ときての次だった。その下には銅賞があったものの、これは参加賞のようなもので、不時着して胴体からランディングをかます航空機の最前列で書いたような作品でもとりあえずは銅賞であった――や、五年生の夏休みの宿題であった計算ドリル――数字は本当に丁寧に書かないと駄目だということは身に染みて知っておりますが、特に0と6、7と9のペアは相互に間違えやすい。ささっと書いたばっかりに、これら数字を取り違え、これまでどれほど集計をやり直し、テストで点を下げ、暗証番号を打ち損なってきたことか、それこそ数え切れません――なぞの、懐かしい品々を眺めておりますと、強い筆圧で書き刻まれた、「ねん くみ なまえ」の名前の字体が、中古CDショップの会員カードの登録書に先日記した氏名と、ほとんど同じことに気が付きぞっとしてしまいました。何にも成長していないんじゃないかと、おっしゃられれば、その通りだと、お答えするよりほかなくて、ただ書く内容の方はさすがに、ちっとは変わりはしましたが、しかし書き癖の方はかえって根強く、それどころか同じようなへたっぴに書き続けて早幾年、すっかり染みつき歪みに歪んでしまったために、恐らくは子どもの頃より、よりひどくなっている。

 よく漫画家さんやイラストレーターの方が、手書きの台詞をちょこちょこと、お書きになっておりますのを拝見いたしますが、あれなんかはそのままフォントにしても売れるぜ買うぜってくらいの、崩れたのでなく崩している、流麗な棒線やちっこい丸文字など、書いた当人の個性が分かって、親しみも持てる代物ですが、そうであるからこそ、打ち上げられて岩にひりつく藻のような文字では、書いた者の人柄も透けて見えるというもので、ただでさえ自分のよからぬ部分がうっかり出ちゃってどん引かれるんじゃないかと、日々戦々恐々としながら、注意深く言葉を選んで表情を作り、世の隅で人目を憚りひっそりと、海藻のように生きていきたいと願っているというのに、それなのにこんなところから、字が汚いばっかりに馬脚を現すことになるとは、でもまァそんなものかも知れませんね。(了)